40代独身道民OLの一人語り

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迷いと決断 -高収入を捨てた話-

私の「迷い」と「決断」は今から半年ほど前のことだ。

 

その頃の私は、某外資系企業で、小さなチームのマネージャーとして働いていた。

 

この会社に入社したのは7年半前。

入社当時の給料は年収で250万くらいで、ごく平凡なコールセンターのOLとして、なんとなく目標も特になく、生きれればいいなくらいの感覚で過ごしていた。

 

それから、さまざまな経験を重ね、新たな発見と体験を繰り返し、自分を成長させていくにつれて、どんどんキャリアアップして、いつの間にか、管理職になり、月々の給与とボーナスを合わせたら1000万近くの収入がある状態になっていた。(そこまでの過程はここでは省略)

 

冒頭から金の話か!と突っ込まれそうだが…、収入とはある意味わかりやすい指標ではある。

 

実際、当時の私は独身で、贅沢三昧、街中の立地の良い家に住み、何一つ困ることのない生活を送っていた。

休みも容易に取れたので、ある時には10連休でシンガポールに行き、マリーナベイサンズで3泊、さらに帰ってからは函館にドライブし、1泊5万近くする旅亭で優雅な1日を過ごす、というような体験をしたこともあった。

 

誰がどう見ても、今の(有給休暇がない)私自身が振り返っても、余裕のある生活だった。

間違いなく、不自由もなく、恵まれていて、仕事を変えようなどと思う必要もなかったはずだった。

 

しかし、それでも、迷いは確かに存在していた。

その理由は概ね3つに分けられる。

 

1つめは、言語の壁の劣等感によるものだ。

 

外資系だけに、連絡先は主に外国人。

なにかを変えたいと思っても、提案は基本、英語だった。

 

私は昔から語学にひどく抵抗のある気質だったようで、学生の頃は英語や中国語で単位を落としそうになったり、ランクを下げるほど苦手意識が強かった。

 

語学はすぐには身につかないし、頭の中で日本語で考えてしまう以上、うまく伝えられないもどかしさが一番の苦手ポイントかもしれない。

 

そんな顕在意識から、できれば避けて通るように生きてきたのだが、気づけばなぜか外資系で働いていて、なんとか食らいついて、google先生の力を借り、ほかの話せる同僚や上司にサポートをもらって、人の倍の時間をかけて英語を書く生活を送っていた。

 

最初の5年は英語を自ら使う必要はなかったが、役割が変わって収入が上がれば上がるほど、私の前に立ちはだかった大きな壁になっていった。

それでも、2年以上勉強して、日常会話程度はできるようになってきたと思う。だが、目指すべきビジネスの壁は高く、本当に伝えたいことはなにも伝えられないもどかしさが多々あったのは間違いない。

そして、うまくいかない、伝えられないというひどい劣等感のかたまりが日々の私を蝕んでいた。

 

そうこうしてるうちに、

「できる人に甘え、結局のところ、自分の力ではなく、尊敬する上司の力で自分はこのポジションにいるのだな」

と感じるようにすらなっていた。

 

だから、自分にはそんな高収入で贅沢な暮らしをしてもいいような器や能力はないのに、そこそこ収入が良く、いい身分でいるのが身分不相応でひどく惨めだった。

自分を高めたいと思いつつも、自分の中のキャパシティを超えた日々を過ごすのは、やりきれないもどかしさがあり、とにかく苦しかった。

 

他人から見たら、「努力もせずに甘えている」のかもしれないが、そんな甘えによって「できない」と自分に限界のレッテルを貼ってしまう自分が本当に嫌になってしまいそうだった。

 

2つめは、自分がやりたいこととの葛藤からくる迷いだ。

 

私がやっていたのはオペレーションマネージャーだったが、チーム管理と言っても、毎週チームメンバーの状況と成績を見てはチームの成長とメンバーの成長を見守る仕事だった。

ある意味、決められたことをただ回すだけの簡単な仕事だった。

ルールはすでに外国で決まっているものが降りてきて、決定権はさほどなく、とにかく自分の意思が何かに影響することはあまりなかった。

全くゼロではないものの、根本的な部分に対しての改善に対しては、大企業にいると、下っ端の発言など雀の涙のようなもので、1つ目で挙げた通り、なにかを変えるためには、語学力が不可欠なものだったし、私に戦えるだけの武器がなかった。

 

そんな中、チームの人材採用に関わる機会が与えられたことがあった。

採用の相手は日本語を話す人たちだし、初めて会う人の話を聞き、チームにとって価値があるかどうかの判断をくだす、という、その職務内容に大きな興味を覚えた。

 

それが「私は人事系の仕事がしたいのかもしれないな」と、ふと自分のキャリアについて疑問を持つきっかけとなった。

 

今振り返ってみれば、採用の仕事は

「決定に自分の意見が影響を大きくもたらすものだった」

から、やっていて楽しかったのかもしれない。

 

結局、ただ与えられたものをなんとなくこなしてぼんやり過ごす、ということが嫌で、自分のしたいこと、向き不向きに対して、本当に変えたいという気持ちが強かったのだと思う。

 

ある意味、わがままな性格だなと自分でも思ってしまったが、少なくとも受け身でいることは自分にはストレスだったのは間違いない。

 

3つめは、周りの人との価値観の相違である。

これは正直、他人に対しての否定的な感想になるので私自身があまり大きく書き綴りたくない部分だ。

だがストレートに言えば、周りと見ている方向が違う、というのがかなり大きな迷いの一つだったのは拭い去れない事実である。

 

当時、周りのメンバーが組織に不満を持っていて、それぞれが良い意見を持っていたのに、上司たちは環境を良くしたいという割には、多くの他人(主に部下たち)の価値観を否定する人が多かった気がする。

 

結局、自分の価値観の押し付けあいで、自分の意見が正しい、だからあの人の考えはおかしいと、頭ごなしに否定的な意見を持つ人がとても多かった。

それで闘争が生まれ、しかも何も解決せずにどんどん泥沼になっていく滑稽な状況がよく見られた。

その中で我関せずな人も多く、さらには変えようとしてた人が諦めてどんどん異動していき、私自身ですら、「ここはもう何も変わらない」というような気持ちにさせてしまうくらい、残念な気持ちになっていた。

 

しかも大手企業なので、このままいけば平気で「チーム自体がなくなり、嫌でも東京に引っ越さねばならない」ということもありえた。

このまま、見ている方向性の違う人たちと一緒にいるのが本当に辛くて、自分の未来が見えなかったことに不安や、愚痴ばかりの日々が少し続いたこともあった。

それもある意味、私自身が、自分の価値観を他人に押し付けようとしていたからなのだろう。

 

冒頭に書いた通り、プライベートは何一つ不自由はなかったが、生活の大部分を占める仕事面では、とにかく迷うことばかりで、私は人生で何がしたいのか、と自問自答をする日々になっていた。

 

なんとなくモヤモヤと過ごしていた時、私はどうしようもなくなり、私が心から尊敬していた東京へ自ら進んで異動してしまった元上司にうまくいかない自分の気持ちを素直に相談をした。

 

彼はその2ヶ月前くらいに同じチームから自らの意思で異動してしまっていた。

彼はこの組織を変えようとして、2年ほど自らも全力で働いて、周りをフォローし続けてきたのを見てきた。

彼がチームから抜けたことは、チームにとっても、私にとっても相当な衝撃だった。

それでも、どうしようもなく、今は上司ではないが、私は彼に相談を持ちかけた。

 

彼は悩む私に電話会議越しにこう言った。

 

「環境を変えるには、自分が変えるか、自分が変わるかの二択しかない」

 

衝撃的だった。

 

当たり前のことなのかもしれない。

 

だが、それを聞いて、どんなに誰かに相談したり、周囲か自分の置かれる場に対して迷いを持っていたところで、結局は自分が決めるのだと我に帰った。

 

どんなにお金があっても、

不自由がなかったとしても、

周りの評価がさほど悪くないものだったとしても、

自分自身が満足していないのなら、

それは幸せなどではないのではないか。

 

それを契機に私は転職活動を始めることを決めた。

 

北海道での転職はまず、良いお給料の会社などなかった。

もともと年収が高かっただけで、中身など伴っていないし、学歴も経験も乏しい。

所詮、飲食業や、営業事務、コールセンターの一員だった人間が管理職をやっていたのだから、武器などあまりない。

 

それでたまたまエージェントで見つけた人事労務関連の仕事に目をつけた。

 

給料は、当時の3分の1くらいだった。

それでも、時給よりはお金がもらえるだろうと踏んでいた。

 

私はその会社に受かる気持ちでとにかく全力で挑み、無事に内定をもらえ、

上司に「もうやめるかもしれません」と伝えた一週間後には退職届を出していた。

 

決めた後の行動は早い方だと思う。

やると決めたらやりとげるよね、と、よく元上司にも言われていたのが懐かしい。

 

人はどんな時も迷うし、自分一人では決められないことがある。

決めるのは自分自身だ。

だが、人からの意見を参考にすることは大切だと強く感じた。

 

世の中そんなに自分が思うように動かないが、これからも自分の中の答えを見つけて行きていこうと思っている。